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牧師の雑記 - 最新エントリ

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牧師の部屋 「夜空を見上げて」 2015年01月25日

 先日の寒い夜、空を見上げた。透き通ったような夜空であっても星は少ししか見えなかった。それよりも、最近は「夜空を見上げる」ということがほとんどなくなった。見上げるのではなく、見える、視界に入るという程度だ。
 田舎にいたころには、夜空を良く見上げた。わざわざというのではなく、山の中の一軒家で他に明かりがないのだから、空を見上げるほかはない。数えきれない星があり、多くの星がまばたく。月明りで歩くことが出来、天の川が目の前に見える。
 今も夜空には数えきれない星がある。見えないのは遠いからではない。他の明かりが邪魔をしてしまっているからだ。地上の明かりも美しく感動させてくれるが、この遠い明かりは何か深いものを感じさせる。自分を見つめ、自分を見直す、そして何かを心に語っているような気がする。近くの明かりは見えるだけだが遠い明かりは声を持っている。人はもしかすると、遠い世界におられる神を求め、そこから語られている声を聞こうとしているのかもしれない。実は近いのだが…

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牧師の部屋 「種を蒔く」 2015年01月25日

 「蒔く」という字は面白い、草冠に時なのだから。花や野菜などの種をホームセンターなどで売っているが、その袋には必ずと言っていいほど、蒔く時期と収穫時期が書かれている。収穫時期を誤ることはそんなにないと思うが、種を蒔く時期は誤ってはならない。種にはそれぞれに地に落ちて、地に温められ、育まれる時期が必ずある。だから、蒔くには時が大切なのだ。
 もう一つ大切なのは、蒔く地である。私は農家出身。田畑を手伝っていたから結構、くわやかま、そしてのこなどの使い方は上手な方だと思っている。畑に何かを植えるときは、くわでしっかりと掘り起し、石や根っこは捨てる。忍耐、忍耐。よい地になっていなければよい収穫は見込めない。からすやすずめよけにかかしを作るがあまり効果はない。あるとき、からすがかかしの頭に止まっているのを見て腹が立った。大切な種は、耕された地の中で、時間をかけて育つ。みことばも同じだ。大切な種は、大切な地に蒔かれる。種(みことば)と地(私たち)はひとつになって何かが生まれる。

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牧師の部屋 《さくらの根》 2013年07月28日

金八(金曜日午後8時)の祈りの時、みんなで下の駐車場に行き、教会を見上げながら歩き、ここに新会堂が与えられるようにと祈った。その時に、土手の中に小さな桜の木が生えているのを見つけた。種から?と思ったがそうではないらしい。少し離れたところには崩れた土砂の中からきれいな桜の根が伸び、そこから一本の桜の木が力強く伸びていたのだ。

桜の木のそばには何本もの新しい芽が出ているのは見つけていたが、こんなに数メートルも離れた場所で、数センチの太さで伸びている根から新しい木が生えているのは初めて見た。
植えてから数年でこんなにも伸びていたのだ。
この新しい木を大切に育てて、桜の木を増やしたい。この小さな木、これから試練に会うだろう。除草剤をかけられ、あるいは乾燥が続くかもしれない。しかし、元木の根につながっているなら、枯れることはないだろう。ある時にはむしりとられてしまうかもしれない。それでも、またその根からは新しい芽が出るはずだ。大地にしっかりと根を下ろした木は強く、そして四方へ広がってゆく。教会も根を下ろし、広がっていこう。

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牧師の部屋 「父と母」 2013年07月28日

「父と母を敬え。」と言われても、簡単にはそうできないことが多いように思う。私もイエス様に出会っていなければ、このことばの意味が分からなかっただろうし、「敬える親ならいいけど」と反感を持ったことだろう。むしろ「父と母を愛しなさい。」だったら理解できる。また「大切にしなさい」なら誰にでも言えることばだ。
「大切に、愛しなさい、敬いなさい。」ということは、それだけの価値や業績があってこそできると考える。幼い時から苦しめられ、愛情を感じることのなかった人にとっては大きな壁である。ある時に思った。このことばは、親を超えて自分のところに来ていることばだと。つまり、自分の存在を本当に尊いと知った時、両親を敬うことが出来るのだ。イエス様はどれほどの思いで私たちを尊いものとしてくださったことか。なにせ十字架の死を持ってだ。それを、思うと、イエス様に出会えて本当に感謝。こんな私を生んでくださった両親に感謝なのだ。父母を敬うことは、自分を尊ぶこと、そして神さまに感謝することなのだ。

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牧師の部屋 《こどもたちは夏休み》 2013年07月21日

先週金曜日は1学期の終了日だったので、通学路に立つことにした。地域の青少協もこの週は立っておられるので、私を含めて5人で交差点に立っていた。

「おはよ〜ございま〜す。」
「明日から夏休みだね。」
「いいあいさつだね。」などと声をかける。
「いっしょにいこ。」とY君。「だって、この前約束したやん。」

手を引っ張られながらも嬉しい気持ちで他の友だちも一緒に学校へ。この時間が、私にとってはとても大切な時間だ。家であったことや、友達とのこと。嬉しかったことや嫌だったことなどを話してくれる子がいるからだ。最近は少ないが、以前は虐待されていることや親が離婚したこと、家族の病気のことなど話してくれるとその子にどのように接していいのか考える。
ところでY君。せみのぬけがらの話しをし、脱皮の瞬間をじっと見ていた話をしてくれた。「せみのからあげ?」それから学校までの植え込みにあるせみのぬけがらを捜しながら学校へ行く。

「教室まで来てよ。」
「だめだめ。」しばらくするとまた出てきた。
「20分までいっしょに遊ぼうよ。」

校長先生・・・
「Y君は、甘えたでね。神陵台の子はみんなかわいい。先生方もみんなかわいいって言ってますよ。」嬉しいことばだった。

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牧師の部屋 「安息の日」 2013年07月21日

安息日とは厳密に言えばユダヤ教でのことで、現在の金曜日の夕暮れから始まる。イスラムではマホメットがメッカを脱出した金曜日を安息日としているしキリスト教会ではイエス様がよみがえられた日曜日を主の日として安息日と同じように考え、身体の休みとともに霊的な安息のために礼拝を持っている。
私はイエス様を信じるまで知らなかったことが多くある。紀元前を (Before Christ)とも、紀元後を(Anno Domini)とも知らなかった。一週間の7日が聖書を起源としていることも知らなかった。これまで偉人と教えられてきた人の多くはクリスチャンであったことを知らなかった。何よりもイエス様が私のためにお生まれになり、私のために死なれ、私のためによみがえられていたなんて知らなかった。こんな事実を知らなかった。安息日、主の日、礼拝の意味と素晴らしさをもっと知っていきたい。この国の至る所で安息の主を知る人が起こされ、礼拝する民となるように願う。それでは・・・まず、私たちが安息の礼拝をささげよう。

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牧師の部屋 《死へと向かって》 2013年07月14日

2か月前、私は還暦を迎えた。人生の4分の3を終えたことになる。永く生きたいとは思わないが、その日まではしっかりと生きたいと思う。父、姉、母、兄と先に送った今、あらためて思わされていることがある。
今までは、生きるために生きていたのかもしれないが、これからは死ぬために生きていく。死と、その向こうにあるいのちと世界のための生き方。かつて三浦綾子さんは執筆の仕事を終えられようとするとき、こう言われたという。

「私にはまだ大仕事が残っている。それは死ぬことだ。」

まだ、先のことなのに言われるだろうが、思っているほど長くはないしまた感じないだろう。死を見据えて生きる年を迎えたということ、これは非常にすばらしい。死んで終わりでもなく、どこに行くのかもわからないのでもなく、行先もわかる。そこがどんな世界なのかは詳しくわからなくてもいい。私のために、十字架で死んでくださった、私の主、私の神に出会えるのだから。死ぬ瞬間までこの方の前に立つ者としてふさわしくなれるように生き続けたいと願う。だからこそ、今日を大切にしたい。さあもうこれからは自分の死については書かない。生きることを綴ろう。もしかして希望って年を重ねてから持つ?

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牧師の部屋 「故郷へ」 2013年07月14日

わがままを貫き、ついに念願だった「石見聖会」へ出席することとなった。なぜ、これほどまで、幾度も故郷を見たいのか、その人々に触れたいのか自分でもよくわからない。
山や田んぼ、畑などの所有地の中を川が流れ、声も届くことができないような、広大な敷地の中にわらぶきというより、かやぶきの古い家で育った。私が15歳の時、その土地をわずかな借金の返済のために、そのままその人に渡したという。実家に帰るといっても何も残っていないのだ。
しかし、そんな田舎にも教会があったのだが、(と言っても数十キロは離れている別の村)私は全く気が付かなかった。きっと、そのところで救われるようにと祈りがささげられてきたと思う。だから、私がイエス様に出会うことが出来た。あんなに因習の深い、人間は良くても、人間関係が何かで束縛され、真の神を知ることが難しい地で、いまも信仰を守り通し、伝道を続けられている方々がおられる。そういう方々に、その祈りと働きによって私が救われたということを分かち合いたい。

「ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る」ヨハネ4:37

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牧師の部屋 《カラス》 2013年07月07日

先日、生ごみを出そうとしていると、1羽のカラスが、出されているごみ袋を一生懸命つついているではないか。散らかされてはたまらないと急いで近づいて見ると、小さな袋に入ったピーナッツのお菓子だった。まだ袋は破られていなかったが、私でも食べたくなるような、新品(?)なので、カラスは苦戦していたのだろう。逃げた彼?がどこかで見ているのではないかと思って見上げると電柱の上に止まっている。
せっかく見つけた食料を取り上げてしまってなんだか可哀そうな気がしてきた。私も食べられるのが嫌ではなく、散らかされるのが嫌なので、袋を拾って開き、カラスの目の前の路上に蒔いた。カラスではなく私が散らかしてしまったのだ。
早く食べにおりて来ないかと、カラスとにらめっこをするが、一向に降りる様子はない。そのあたりを一巡りして来てみると、なんと今度は3羽になっているではないか。餌付けしてしまったのではないかと後悔した。これから私が来ると寄ってくるなんていうことがあったとしたら、カラスもかわいいと感じるのだろう。黒いから、被害を及ぼすからという理由で嫌われてしまうのも必死で生きているカラスにとっては迷惑だろう。カラスも私も神の被造物。私は罪があり赦された者。カラスは?

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牧師の部屋 「結婚式」 2013年07月07日

昨日の結婚式には予想を超える多くの方々が来てくださった。はっきりとはわからないが、会場を見たところ250名ほどのように感じた。祈り、準備し、奉仕をしてくださったことを心から感謝している。私にとっても、親族や、長く会っていない人などとの懐かしい再会があったこと、「また、教会に行きたい」と声をかけてくださった方、初めてお会いする方々など、本当に幸いな時だった。二人を祝福し、ともに喜んでくださる方々との大切な時間だった。
マタイ22章9節には
「大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。」
とあるが、この機に教会に触れて下さったらと多くの人に声をかけ、妻はいつも案内を持ち歩いていた。二人の古い友人や思いがけない人も来てくださった。私も友人の県会議員や市会議員にも声を掛けようかと思ったが、選挙のこともあり、遠慮してしまい少し後悔している。ああしてせっかく来てくださった方々を、私たちはどう迎え、どう接しただろうか。知らない人に対してはどうだったろう。どんな時でも「主に愛されている人、大切な人」という思いで接して行こう。それが私たちの務めで祝福だから。

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