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牧師の雑記 - 最新エントリ

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牧師の部屋 《突然の電話》 2013年06月30日

金曜日、栄光キリスト教会の菅原先生から電話があった。
「あ、吉川先生?今度ね、阪神のマートン選手、スタンリッチ選手など3人がね、野球のクリニックをしてくれるそうだ。アメリカの宣教団体が進めているんだが、一緒にやってくれないか?」
突然で戸惑ったが、それでもあの有名なクリスチャン選手が神戸でそういう時を持って証しをしてくれる。こういうチャンスを逃す手はない。と、また「わかりました。やります。」と言ってしまっていた。
「どこか場所がないかね。広いグランドが必要で、もうどこも空いていないんだよ。」
それもそのはず、その日とは、8月17日(土曜日)なのだ。試合期間中では?
そこで土曜日に打ち合わせのために行ってきた。「場所が・・・」ということなので、「国際高校のグランドは?」と口を切った。すると「ああ。ちょうど、上の讃美集会に国際高校の先生が来てる。呼んでくる。」と駆け上がられた。すぐに若い先生を連れて来られた。加古川の教会のクリスチャンだった。校長に話しますと言われたので祈って返事を待つことにした。
それでも、すばらしい導きを感じた。高校の先生・・・「多聞福音教会にも一度行きたかったんです。学校の礼拝で短くお話しをして下さい。」突然の依頼。さてどう応えるか。

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牧師の部屋 「first name」 2013年06月30日

私の父は、名前を付けるときにこだわりを持って付けた。名は体を表すから、省略して呼んではならないと、姉以外は一文字、姉もおそらく省略出来ない名を付け、代々続いてきた広という文字を入れた(広美)。私は自分の名前の意味を聞いてはいたが本当にその価値を知ることが出来たのは信仰を持ってからだった。
「吉(喜び)の川(水)が流れて潤う。」と父は説明してくれたが、湿った感じと、男らしくない「じゅん」の名前が嫌いだった。
イエス様に出会ってから、聖書のみことばの潤に出会ったとき、本当にこの名前に感謝した。父は神に用いられて私の名を付けたのだ。ファーストネームは個人を表している。「イエス」は、私たちの主のファーストネームだ。以前アメリカのボランティアが3階に宿泊していた時は、私の部屋の前を通るたびに「パスタージュン!」と叫んでいた。名前を呼ぶことはうるわしい。
イエス様の名をもっと呼ぼう。そこに主がおられるから呼び、呼ぶところにおられるから呼ぼう!
教会の中では人をファーストネームで呼ぶことが良くないような・・・でも、もしかしたら大切なことかもしれない。

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牧師の部屋 《最近出会った人》 2013年06月23日

ある日、Hさんから電話があった。
「先生は神陵台小学校と太いパイプがあるんでしょ?紹介して欲しいという人がいるので行ってもらっていい?」
どんな人かどんな話か分からないままにその人を迎えた。元自衛官。退職された後にこどもたちのために、防災関係のイベントなどのボランティアを立ち上げて、サバイバル的な興味ある活動をされているという。
さっそく校長先生に連絡すると「今、いますよ。」という返事。二人で校長室へ。いろいろな地域の活動に小学生を引き出せないか話し合った。明舞センターで防災食を用いた食事の提供などがこの秋実現しそうだ。話は広がって、他の高校や青少協などの活動にも取り入れられることになった。
私は、毎年行っている明舞センターでのクリスマス会には神陵台小学校6年の合唱を引き出せないかと考え、これは校長や音楽の先生にお願いして了解を得ている。
教会に来ている6年生が、これから地域の中での活動に参加してくれることを願っている。それらがいい体験となり、自信となり、自分自身の価値を知ってほしいと思う。一人の人と出会う。その小さな出会いでも、同じ意識を共有できるならその出会いは大きな変化を生む。だから出会いと人を大切にしよう。

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牧師の部屋 「赦して赦され、赦されて赦す」 2013年06月23日

イソップ童話の中にライオンとねずみの話がある。ライオンをそれと知らず、無邪気に遊びまわるねずみがうるさくて捕まえて食べようとする。するとねずみは「きっと、あなたのお役に立ちますから助けてください。」と懇願する。小さなお前に何ができるかと笑いながらも解放してやる。ところが人間が仕掛けた大きな網にかかり身動きが取れなくなってしまうのだ。そこでねずみの出番、ねずみは網をかじってライオンを助け出す。ライオンはねずみに感謝し馬鹿にしたことをわびるという話だ。
相手の願いや弱さを許容すること、そして自分に対して犯された罪を赦すということは自分も同じように扱われる。人は、だれもが許し許され、赦し赦されて生きている。自分が害をこうむっていない罪を「赦せない」というのはどこかおかしい。人を「赦す」と言えるような場面はそんなに多いのだろうか。それほど自分には間違いがないのだろうか。それほどその人から直接、罪を犯されているのだろうか。罪を犯すことには敏感で人の罪には鈍感でありたい。

「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。」マタイ6:14

「もし」

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牧師の部屋 《十字架のもとへ…その二面性》 2013年06月16日

今年のオンギジャンイツアーのテーマは「十字架のもとへ行こう。」だ。十字架は礼拝堂でのように壁につけられてはいない。人々の真ん中に立てられ、それを両方から見上げている。
私たちへ向かう十字架は、「あなたを愛し赦している」というメッセージ。裏側は向こうにいる人々を「彼らのためにもいのちを捨てたのだから彼を赦してくれないか」というメッセージがある。十字架を挟んで正面に立っている人は、一番赦しがたい、愛せない人だ。いまは、誰が、十字架の向こうに見えるだろう。自分が愛され受け入れられた、ということをもっと深く心に留めていきたい。
神の愛、父の愛は「許す愛」であり「赦す愛」だ。エバやアダムがみことばに従わなかった時、全能の神はなぜ止められなかったのか。アカンが、ダビデが、ユダが罪を犯すとき、なぜ止められなかったのか。放蕩息子が出てゆくとき父はなぜ説得し止めなかったのか。弱い父親なのか。他者にはわからない苦悩を伴う愛がある。神様はあえて許可する(自由意思に任せる)ことをされたが、これも深い思のある愛だと感じる。
もし、この許す愛がないのなら、私たちはすでにとっくの昔に滅んでいただろう。十字架には多くの愛が秘められている。

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牧師の部屋 「父の思い出」 2013年06月16日

あまり幼い時のことは話したくないが、父は大酒のみで毎日のように飲んだくれては暴力をふるい、村でも評判であった。飲まないときはいいのだが、いったん飲みだすと手におえない。母親はいつも怒鳴られ殴られ、壊れた食器の残骸が竹やぶには山と積まれていた。酒を飲みだすと震えながらじっと父の寝るのを待っていた。そんな父が、母親が家を出て行ったことをきっかけに突然変わったのだ。長くしていた村の消防団を辞退し、そのわずかな礼金を私が高校に入学するための費用とし、田畑や山、家を借金返済の代わりに手放し、一人広島へ働きに出て行った。
4畳半ほどの独身寮に住みながら夜勤をし、欠かさずに学費を送ってくれた。入学した年の夏休み、父の所へ夜行バスで帰った。
駅まで迎えに来てくれ、久しぶりに食事をともにした時、父の腕には大きなこぶが出来ていた。仕事でなにかあったらしい。それを見た時、目があつくなりこれまでの恨みは消えてしまった。
その父が58歳、事故で亡くなった時は、山に登りひとり泣いた。

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牧師の部屋 《捨てること、奪われること》 2013年06月09日

人には捨てることとともに、奪われることが必要だ。また、拾うこととともに、押し付けられることも必要だ。捨てることや拾うことには、自分の意思が伴い選択することが出来る。
しかし、奪われることや押し付けられることは、自分の意思や願望ではなく、むしろ反したものである。
自分の意思で選択することは重要であり、それが私たちの道を決定づけ、自分の意思に反することや、また思いもよらずに、大切なものを奪われたり受け取らなければならないとき、その決断と受容は自分自身を変革してゆく道である。
自分の意思で決断し、捨てたものや得たものはこれまでも多くあるだろう。その分離は神への道を歩ませてくれる。世との分離がきよくなる生き方だ。
同時に、奪われること、押し付けられることもあえて受け入れてゆこう。そのことなしには心と思いがきよくなることはできない。人が変えられる道だから。イエス様は奪われた。天の栄光を奪われ、その座を追われ、十字架の死を押し付けられ、いのちを奪われた。そして、最終的にはそのすべてを引き受け入れてくださった。イエス様はその道を、ご自分が変わるためではなく、私たちが変わるために引き受けてくださった。感謝。

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牧師の部屋 「本物志向」 2013年06月09日

生まれ育った家には神棚と仏壇があったが、それはどこの家でも同じであった。仏壇には毎朝ごはんを一番に供え、線香をたくが、神棚と同様にほこりをかぶっていて、掃除はたまにしかしなかった。それでも神棚には柏手を打ち、仏壇には手を合わせるのが日課だった。そのせいか、道端に地蔵があり宮があると、会釈をしたり、手を合わせるような一般的な宗教人になっていた。
クリスチャンになって、この時期の宗教的な影響を感謝した。それは、本物ではなかったが、目に見えない存在、霊的なものがあるということを肌身で感じていたからだ。
本当の神がおられるなら知りたいと真剣に思うようになったのは高校生の時。その数年後、イエス様を知り、今まで手を合わせながら心の叫びや求めていたことを聞いていてくださったのは、この本当の神であったということがわかった。
真実、真理を求める本物志向。神を探し求める者には、必ず会ってくださる。本物を求めよう。ここにしか意味を持てないから。

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牧師の部屋 《準備していることが、成し遂げられます》 2013年06月02日

先日の第三神殿のドキュメンタリー映画の中で語られていたことばだった。神が望んでおられるかどうかは別にして、神殿の再再建を民族の願い、目標として進んでいる様子が映し出されていた。神の思いとは別に、イスラエル民族は「自分の神への信仰」によって歩んできた。その結果、神の命令のままに歩んできたというときはほとんどないように思う。だから、バビロン捕囚があり、西暦70年からの離散があった。
しかし、神の御心を行えないイスラエルを通して、神はご自分の計画を行って来られたのだ。この神殿のことも、同じように感じている。だから、クリスチャンである我々も、この問題を関係ないもの、かかわってはいけないものとして取ることはできない。イスラエルの中に注がれ働かれている神の御心を思うなら、心と目と耳とをしっかりと、今、イスラエルに傾けよう。
イエス様が来られるときも、長い準備があり、バプテスマのヨハネによる備えがあった。そして主が来られたのだ。
私たちも第三番目の教会堂を建てようとしているし、日本の救いを求めているのだから、具体的な準備を、心の中と目に見えるところで行っていこう。準備する時に希望が湧きあがる。

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牧師の部屋 《オンギジャンイの宿舎》 2013年05月26日

今年もオンギジャンイの関西ツアーを目の前にしている。今年の悩みは宿舎だった。これまで手を入れながらお借りしていた宮崎宅が使用できなくなったからだ。彼らと毎年、しばらくの時を過ごしながら、彼らとの交わりがどれほど素晴らしいかを知ってしまったので、何とかして近くに宿舎をと願っていた。彼らもこの教会の近くにいいることが嬉しいらしく(?)いつも家に帰ったようだと言ってくれている。
もちろん教会でも泊まれないことはないのだが、もっと自由に使うことが出来る宿舎を捜して、声をかけて捜していただいていた。一週間前に、加藤さんのお宅を貸してもいいということで、すぐに行ってみたが、長く使用されていないために掃除が大変だというのは明らかだった。それでも加藤さんは、仕事に行く前、そして帰ってからも片づけてくださっていた。
感謝なことだ。できるだけ手を加えて彼らを迎えたい。姉妹たちは布団やカーテン、カーペットなどを提供(借用)してくださった。さらに掃除などの準備もしてくださる。こんな急な、そして無謀のようなことをしてくださる愛の教会はあまりないな?と、ふと思ってしまった。

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