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牧師の雑記 - 最新エントリ

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牧師の部屋 「十戒の山シナイ」 2013年05月26日

ずいぶん前だが初めてイスラエルを旅行した時は、まだシナイ山に登ることが出来た。今は政治的なことがあり難しいだろう。
前の晩、シナイ山のふもとに到着したとき、周りの赤い岩山が夕日に照らされ、さらに深く染まっていた。神々しさを感じ、その昔、モーセが神の前にひざまずいたことを思い起こしていた。
あまりにも静かで自分の頭の中を流れる血液の音が聞こえるほど(危険?)だった。あの山は特別な山だ。なんとも言えない力や神秘さを感じさせ私もひれ伏したくなった。
この山でモーセは神のことばを聞き、十戒の石の板を受け取った。もう一度あの山に行きたい。上から見下ろす風景もいいが、やはりあの山はふもとから見上げるほうがいい。
あの時には山から声が聞こえ、石の板に「してはならない」と刻まれた。今は、私たちの心の中に、「しなさい」という聖霊の声を聞くことが出来る。「信じなさい・愛しなさい」。刻むか、刻まないか。行うか行わないかは「私たち次第」ということになる。

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牧師の部屋 《ちょっと一言》 2013年05月19日

最近怒りを感じるニュースがある。一つは、橋下市長の従軍慰安婦に関する発言だ。戦争や軍隊には必要であるように語られ、そこに戦争責任や女性に対する尊厳など少しも見られない。
どこの国にもあるからという道理は通るはずもない。ああいう言い方をするとこれからも当然のように容認されてしまいそうだ。公人というだけではなく、人間である以上、それを罪として避けなければならないはずだ。アメリカの司令官は、彼の進言を聞いて戸惑い、政府も言語道断と厳しく非難している。「日本だけが…」と言うが、事実を認めないから長引くのだ。認罪がなければ、慰安婦問題だけではなく、さらに別なことでさえ、戦争だったからと言って終わってしまそうな気がする。
もう一つは、東京電力で原発の汚染水を海に流すということだ。地上に蓄えることもできずに、増え続けるものをどう処理するかは大変なことであるが、安易にそのままで海に流すという。これも仕方がないというのだろうか。農産物や海産物に守られてきた日本が、自分の手でこれを破壊しようとしている。創造者である真の神を知らない、恐れない、頼らない国の選択する道がこれだ。早く、変えていかなければ・・・そして早く民族の救いが始まるように祈ろう。

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牧師の部屋 「聖霊による感動」 2013年05月19日

1972年のペンテコステは5月21日だった。その日が私のバプテスマ式、今でもよく覚えている。垂水福音教会は今の建物ではなく、仲田にあった一戸建てを改装したものだった。
きっと緊張するし、感動するのだろうと思っていたが、人の目は気になったがさほど緊張もせず、感動もそんなになかった。
あっけなく終わってしまった。後でわかったのだが、前日に風呂を何回も沸かし、バケツで洗礼漕まで運んでくれたというのだ。
それから、バプテスマ式が行われるたびに、土曜日にお湯を運ぶ役目を引き受けた。何回も沸かしては運ぶのだが、それでもうれしい奉仕であった。
あの日は、まだまだ聖霊のことがよくわからなかった。自分の中に、絶えず生きておられることを体験できたのはしばらく経ってからだった。バプテスマの喜びを感じ、イエスさまを思うと感動が押し寄せ、電車の中でもバスの中でも涙を流していた。

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牧師の部屋 《私を生んだ地へ》 2013年05月12日

1969年3月。16歳の誕生日を前に、生まれ育った村を後にした。貧しく、食べるものにも事欠いた日々。父親の酒乱、農作業の毎日など、決していい思い出だけとは言えない。
その日から44年、60歳還暦を迎えた。しかし、私の心の中には絶えずその故郷への思いがある。今は生まれた家もなく、家への道も山の中に埋もれている。
なぜ、これほどまでに思うのかは自分でもわからないが、今の自分を生み、育てた故郷だからだろう。あのころは、その地に二つもの教会があることを知らなかった。私の本籍地に一つ、母の実家の町に一つ。それはたった一人のクリスチャン助産婦が来られ、人々にイエス様を伝えながら働かれた実だった。
私が教会に通い始めたとき、1冊の本を通してこの事実を知った。この時に信仰を持たれた高橋という青年が今は牧師として定年後に牧会されている。今はその地に3つの教会、一つの集会が、そして各地で家庭集会が行われている。
私は感謝している。こういう人たちが祈って来られたから、私が導かれたのではないかと・・・7月、この地で石見聖会が開かれる。今も古い因習の中で、しっかりと信仰の火を絶やさずに燃やし続けておられる人々と、懐かしい地へ、感謝と祝福のことばをもって帰りたい。

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牧師の部屋 「こっち、向いて・・・」 2013年05月12日

イエス様のペテロの取り扱いを見るときに、どうしてペテロに対しては、特別なかかわりを持たれるのだろうかと感じることがあった。ペテロとイエス様の会話は多いし、ペテロとヤコブとヨハネの3人だけを連れられたことが何回かある。ここでも、ペテロに対してほとんど語られている。これは、イエス様が語られた差
ではなく、聖書に残された差なのだ。
イエス様はだれにでも語られる。私は思う。それは、イエス様が作り出されたものでなく、むしろペテロが引き出したのだと。彼は、でしゃばりというのではなく、心から求めていたのだ。
もっと知りたい。もっとイエス様の思いを知りたい。もっと、その目的を知りたい。もっと近づきたいという思いからだ。
二男が幼いころ、膝に抱かれながら、親の顔を小さな両手で挟んで自分のほうに向けることをよくしていた。そうなると当然親は目を向けざるを得なくなる。ペテロは幼いほどにイエス様の心を知りたかった。彼はイエス様と、かかわりを持とうとして、かかわりを持たれた。感謝なことです。

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牧師の部屋 「必死で生きる」 2013年05月05日

昨日、可児福音教会からの帰り道、高速道路を二匹のサルが横切った。私たちの前に一台の車が走っていたが、その車にはねられそうで一瞬目を閉じたくなるような光景であった。
反対車線でも無事だったようで、はねられた音も、事故になった様子もなく安心した。あやうくサルだけではなく何台も巻き込む大惨事になるところであった。少し前に反対車線で4台の追突事故を横に見ながら走っていたので本当に胸をなでおろした。
サルも必死に生きている。「必死に生きている人のあやまちを、どうして責めることが出来ましょうか。」というようなことばをあるドラマの中で語っていた。こちら側の見方がどうであれ、人はみな必死で生きていこうとしてもがいている。
尊いことだが、さらに意味を持たせ、実を結ぶものであるためには、「何のために生きて死ぬか。」が大切だ。私たちのために必死で生きて、必死で死んでくださった方のために必死で生きよう。
このような方の生き方と死に方を、聖書から読み、聞いていこう。

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牧師の部屋 《ホームページ》 2013年04月28日

私たちの教会を訪れてくださる方には、ホームページを見て来られる方が多い。教会の方が見ておられるかはよくわからないが、担当してくださっている方々に心から感謝している。
私のCGNTVのメッセージにもリンクされているし、教会のことがよく見えるように工夫されている。
これを更新するという作業は、並大抵のことではない。私なら当然三日坊主になるし内容がつまらなくなる。
私のブログとやらも、直接には書き込めていないので申し訳なく思っている。しばらく書き込まなかったら、書き込む方法を忘れてしまったのだ。それでも、週報に載せているものを、適切に選んでアップしてくださっているのが嬉しい。
私は、まだイエス様のすばらしさに出合っておられない方が、何とか教会や聖書に興味を持ってくださり、教会に足を運んでくださればという願いで書いている。霊的ではないと言われればそうであるが、ホームページとはそうありたいと思っている。担当してくださる方も、わかっていてくださるので選択には苦労されていることだろう。みなさん。ぜひ見てください。

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牧師の部屋 「ピスガの頂まで」 2013年04月28日

モーセの意味は「引き出す・救い出す」。ヨシュアは「救い」という意味だ。それぞれ神から与えられた務めを明確に表している。モーセは民を奴隷から救い出し40年間導いたがその苦労は並大抵なものではなかった。どれほど「辞めたい、終わりたい、代わってほしい」と願っただろうか。祈り、忍耐しながら働いて
も結局は人々を救い出したが、救い入れることは出来なかった。
人々を完全な姿に変えることが出来なかった。
ただ、従うかどうかもわからない人々に、真の神と律法を教えたまでだったように感じる。彼の生涯は、ピスガの頂までで終わり、救い入れることはできないままに終わってしまった。
モーセは彼の働きをしただけでそれが彼の使命であった。後は、「救い」という使命を持たされたヨシュアの働きであった。
私たちは、自分が果たす役割を超えて次のことまでもしなければならないと思ってしまうのではないか。モーセとヨシュアの両方の働きは出来ないのではないか。ピスガの頂まで・・・。
私たちはあるところまでで託さなければならないことがある。
何より聖霊様に働いていただくことを待ち望んで行こう。

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牧師の部屋 《早天メッセージより》創世記 2013年04月21日

罪には連鎖するという恐ろしさがあります。小さな偽りや罪を隠すためにさらに罪を重ねてしまいます。また、傷つけた相手への苦い思いが消えるまで復讐の心を燃やしてしまいます。 しかし、それは、相手にも同じような復讐心を与えてしまうことになります。怒りは怒りを生み、偽りは偽りを、そして復讐の思いは相手との間を行き交い増幅するのです。
ヨセフの兄たちも、ヨセフに対する嫉妬から殺人にも匹敵するような罪を犯し、それを隠すために父ヤコブに偽り続けるのです。きっと、彼らは自分の罪が暴かれるのではないかと不安の中に束縛され生きていたのではないでしょうか。
一方、「罪の連鎖」とともに、「認罪の連鎖」があります。ヨセフの聖なる策略に、思い出したくない過去の罪に対峙しなければならなくなります。初めはルベンが、そして次にはユダが自分たちの犯した罪に触れ、認めざるを得なくなります。
自分の過ちや弱さを告白し、赦されたことを証ししてゆく。自分の中にある罪性を真摯に見つめていくその生き方は、人へも伝わっていきます。罪の連鎖は恐ろしいものです。しかし、この認罪の連鎖は、人を赦しと祝福へと導くのです。聖霊は、罪と義と裁きについて誤りを認めさせてくださるのです。赦された義人意識にではなく、赦された罪人意識に生きましょうか。

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牧師の部屋 「説教者のあやまち」 2013年04月21日

礼拝メッセージに悩んだとき、昔語ったメッセージを引き出して語ったことがある。教えられ、自分でも感動した個所からのメッセージであった。
ところが、語っていて、何かむなしく感じ、終わってから心が疲れ果ててしまい、顔を見られたくないような思いであった。
説教者の陥りやすいあやまちだ、前が良かったから、感動を与えたメッセージだからまた語ろうとする。しかし、聞いておられる方々はあの時に生きているのではなく、今。そして、語っているのも、あの時の自分ではなく今の自分だ。さらにこれが、いのちのない小説ならばいいのだが、生きておられる神の、生きてい
ることばなのだ。
聖書の個所は同じでも、その日、その日に語られることは違っている。何度も、この個所から語ってきたと思う。そして、その都度新しく教えられるのは、聖書が確かに、いま、私たちに語られているメッセージだからだ。

「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」へブル3:7

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