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牧師の雑記 - 最新エントリ

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牧師の部屋 朝、こどもたちと 2008年01月16日

朝、交差点に立って登校するこどもたちに挨拶をする。
初めはちょっと恥ずかしさもあったが一週間たつとはまってしまった。
こどもたちの登校する姿がかわいくてたまらない。 元気よく返事を返してくれる子、無視する子、時には怒ったようにことばを出していってしまう子、いろんな子がいる。
半年たった今、ほとんどの子達と挨拶を交わし、話をするようになった。自分のことを話してくれる子、学校であったことを話してくれる子、飛びついてくれる子、ジャンケンをしていく子、今はもうやめられない。
氷点下の朝、元気な子達に暖められた。雨の朝、通勤や通学の人にとっては本当にじゃまだろうと悪い気がする。雨風が激しい時はかえって危険ではとさみしくはあるが立たない。
右折してくる車に気をつけながら、こどもたちを見守る。車とぶつかりそうになったこどもがいる。そんなとき、次に立つ勇気を失いそうになる。もし、何かあったらもうここには2度と立てない。
この交差点で決して事故を見たくない。心の中で祈りながら立つ。おじさんがおじいさんと呼ばれるようになっても健康が許す限り続けたい。
3月卒業した6年生、さみしくなったと思ったら真新しい制服に身を包んで声をかけてくれた。
そして・・・1年生の登場。みんな上級生に守られるように登校する。かわいい、かわいい。
ふと考えてしまう。自分がこどもを受け入れているのではなく、こどもに受け入れられることを求めているのだと・・・だから立つことはこどものためではなく自分のためなのだ。不純な隠された動機。
こどもだけではなく多くの方が声をかけてくださり話ができるようになった。心の中で感謝がいっぱい。
私にとっては宝物だ。かわいいこどもたちに会い、いい人たちに囲まれて、いい街に住んでいる。
田舎からたった一人で何もないまま兵庫駅に降り立ったあの日、こんな生き方ができるとは夢にも思わなかった。いま、家族や教会、地域のたちと一緒に生きる、このしあわせを与えてくださった神に感謝している。

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牧師の部屋 ディジタル放送に思う 2008年01月16日

ディジタル放送がスタートしました。あまりよくわかりませんがすごいことだと思いますね。
これからはますます進化していくでしょう。数年前までは信じられなかったことが実現してゆく、小さな頃漫画の世界でしかなかったことが実現、いやその時は考えられなかったことが実現しているのです。
携帯電話がこれからどのように変わるかと思うと創造できないほどですね。いまにすべての人間の身体の中にマイクロチップを埋められて、あたかもテレパシーのように会話ができるかも・・・何やら恐ろしくもなります。
さて、いよいよテレビなどを通しての情報が多様化すると、危険性も増すように思うのです。色々な番組を通しての情報が流されると、何よりも危惧するのはこどもを初めとする人間性への影響です。
メディアは大きな影響力を持っていますから、どのように用い、何を提供するかを見据えておかないと一番影響を与えるだけに、悪影響を与えることになります。
人間性、個性をばかにした番組。いのちを粗末に扱っているドラマ。私は社会の現実がドラマのストーリーを生み出した時代から、今はドラマのストーリーが現実を作り出してしまってはいないかと思うのです。女性やこどもが襲われるシーンがあまりにも多い番組、殺人でなければならないようなドラマ。どこかで止めて欲しいと思うのは私だけではないと思います。
残念ながら・・・メディアがこの社会を活かしもし、殺しもすると言っても過言ではないでしょう。
テレビ局へ伏してお願いします。視聴率を考えると仕方がないかもしれません、しかし、こどもが見るということを前提に考えて下さい。企業へ伏してお願いします。こどもたちのために、この国の将来のために、いい番組を提供して下さい。と、言いながらも私はできているかな?と思うとできていないんですよね。言うのはいくらでも言えます。でも、心のどこかで痛みをおぼえるのです。えらそうに言ってごめんなさい。

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牧師の部屋 時計のはなし2 2008年01月16日

ごめんなさい。ついにバス停前の掲示板に取り付けていた時計を取り外すはめになりました。

結局、どれほどの人に役立ち、どれほどの人に迷惑をかけてしまっただろうか。
時刻が正確であって初めて役に立つ時計が、何度合わせても次の時に見ると、時間が大幅にくるってしまう。電池を替えても同じ、「これは安い時計だからか・・・」と少し高いのに替えても同じ。
ところが、取り外して家に置いてみるとこれが正確に動く。きっと熱のせいと思い掲示板に穴をあけようとも思った。しかし、そうなると雨が降り込む。こんなことでと思いつつ、悩んだあげくついに取り外した。
わずか数ヶ月で挫折。なんとも残念でならない。そこで思う、「教会正面の壁に、大きな時計を付けようか」
朝から夕方まで日が当たり続ける正面。同じことになるだろうとこれもあきらめた。
突然なくなっていた時計に、どれほどの人が気づきどれほどの人が残念がられたか・・・ちょっとは気になる。
いろいろなことを思うのは、きっと私だけだと思う。良かれと思ってしたことが、すべて喜ばれるとは限らないのは世の常とは思いつつ、きっと多くのところで同じことをしてしまっているだろう。
今回の時計でへこたれず、「掲示板からラジオが聞こえる」「目覚めの音楽が流れる」「突然に、私の声でおはようございますという声が聞こえる」などなど考えてみよう。いいアイディアありませんか?

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牧師の部屋 時計のはなし 2008年01月16日

ある時ある人が言った。 「バス停に時計を置いたら便利とちゃう?」
なるほど・・・教会の前にあるバス停に看板がある。見ていると時刻表を見たり腕時計を見たりしている人がある。
さっそく買ってきて取り付けた。初めは見てくださる方がおられるかと気になった。
便利と思ってくださるのかどうかが気になる。勝手に付けたのに考えることも勝手である。
あるときは時計がなくなっていた。あるときは、時刻が大幅にくるってしまっていた。あるときは、熱のために文字盤がゆがんで短針がずれてしまった。いろいろなことに頭を痛めながら時計を変えてゆく。
「時間が正確でないとかえって迷惑をかけてしまうのに…」 外した方がいいのではないかと何度も考えた。
正確な時間を保つために、ふと電波時計にしてみようか考えた。
考えてみたらこの時計を信用してバスを待ちつづけておられる方や、乗り遅れられた方がおられたら本当に申し訳ないと思う。ひとつの案を思いついた。
「時間がくるっていたら直してください」というお願い。 それもおかしい。 正確なものがあるのに、間違ったものを信じるならなんと大きな損失をすることか。
人はこの社会を生きている。その中で、信頼できるものってなんだろう、もし、真実なものがあるのに、そうでないものを信じてそこに生きていくとしたらどんなに大きな損失をしてしまうことだろう。
私たちすべての人には決して変わることのない、間違うことのない真理が提供されている。しかし、人ってどこかでそんな生き方よりも、間違った生き方を自分の生き方だとしてしまうものに価値を見出してしまうのではないか。
イエスは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われた。
まさに決してくるうことのない、人のための時計、指針である。
私たちの中のずれがわかる人、そして、変革を求める人、その人は人生に対して謙虚であり、正確な、変わらない真理を知ることができるでしょう。真理は捜す人には優しく現れてくれると思うのです。

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牧師の部屋 人はなぜ尊い 2008年01月16日

ある時ある人が言った。「自分が何のために生きているかわからない。何か信じきれるものが欲しい。」・・・以前私がずっと感じていたことと同じだった。今、多くの若者たちが自分の居場所を求めているのか、不安やうっぷんをぶつける場所がわからないのか、いろんな問題を起こしてくれる。
でも、そのエネルギーの中に光るものがある。そんな若者たちがどこかでいとおしいのは自分の姿が見えるからだろうか。親が子を価値あるものとしなければ、その子がそのまま親になる。繰り返される世代間連鎖の中で悩みはますます大きなものとなってゆく。
少子化や虐待、非行など社会的な いろんな事が語られ、いろんな方策がとられる度に下々の者は苦労させられる。根本的な解決を求めながら、結局は対処療法しかない。何か虚しい。
私は勝手ながら感じている。もしかしたら・・・これは進化論のせいかも。 進化論は真理とは限らない。神が人を創造されたという創造論もある。
進化は連続的なもの、今猿からまさに人間へと進化しようとしている猿人がいるかな?そしてだれが次へと進化しようとしているのだろうかと思うと不思議。
自然にいのちが発生したなら価値はあるのだろうか。それは人が決めることが出来る。しかし、神が愛と目的をもって創造されたのなら価値は絶大なもの。そして人が生きる意味もわかる。
教育は、真理とは限らないものを限定してひとつだけ教えてしまっていいのだろうか。 進化論、創造論のふたつの説を提示して、個人が生きて行く過程の中で選択する必要があるのではないだろうか。
人が知るべき当然の権利を教育が奪ってしまうことにならないだろうか。これは宗教の問題ではない。政教分離が大切な真理の提示さえも押し殺してしまっているように思える。
自分への絶対的な愛を知らない人は、いったいだれの愛を基にして生きるのだろう。贅沢はいいません。ただ、教育の現場に、ふたつの説があるということだけを教えて欲しいのです。いつか、その子が人生の中で迷った時どちらかを選ぶことになるだろう。そして何かが変わるかも。愛されている事実を知らせたい・・・

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牧師の部屋 水道代節約のウラ話 2008年01月16日

教会の屋根がフラットだった時、家を建て直すから不用になった太陽熱温水器をもらってきて取り付けた。自分で配管したものだから見た目はよくないが結構長く使った。屋根が三角になった時、それは捨てた。雨が降ると多くの水がムダに流れるのが惜しくてたまらない。太いえんびパイプを壁面に縦に何本も取り付けそこに雨水を溜めようと貯水量を計算したら、息子が「サティアンみたいやで・・」その一言にあえなくダウン。
確かに・・・。それでも雨が降るたびに悔しくてたまらない。あるとき街路樹に水をまいている車の後に黄色のタンクを発見、「これだ!」早速、タンクを買って取り付けた。費用がしめて3万円。「お父さん、元取るのにどれだけかかるん」その一言に再び落ち込むことに。それでもトイレ2ヶ所のの水はここから取ることになった。あとは水まきのためにと外にも蛇口を設けたが、あまり意味がない。なぜかって・・・水まき(屋根材にコールタールが含まれるので植木にはやっていないので夏の地面だけ)が必要な時にはタンクに水はない。このことは息子にはナイショ。もう何年たっただろう、雨が多いときは惜しくてたまらないが、結構節水にはなっていると思う。梅雨の時期など雨水だけでトイレは十分まかなえる。場所さえあればもっと取り付けたいと思うし、今度は風力発電をと欲を出してしまう。屋根の上に大きな十字架がたった、実は風力発電。なんておもしろいですよね。でもこれは私には難しそうなのでせめてかざぐるまにしようか・・・

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牧師の部屋 朝の通学路 2008年01月16日

朝の通学路に立つようになって1年と8ヶ月がすぎた。今頃になって聞いた話であるが、初のころは「怪しいおじさん」だったそうだ。わからんでもないですよね。まだまだいろんな子がいる。わざわざ背伸びをして髪を触る子、「今、何時?」と聞く子、「かばんのふた閉めて」「手、けがした」「今日のネクタイ、なに?今度はドラエモンしてきてね」ある人がドラエモンのネクタイをプレゼントしてくれたので一度したら、次から、ぴよちゃん、ミフィーちゃん、トムとジェーリ、ついにキティーちゃんとかわいいのばかりプレゼントされるはめになった。これを嬉しそうにして立つ私はやはり変なおじさんだ。子どもたちの声や笑顔に支えられながらの楽しい時、役に立っているのかじゃましているのかわからない?と感じてしまう今日この頃。最近は作曲した歌を口ずさむ。
このまち〜は〜、このまち〜は祝福のまち〜!あのひとは〜、あのひとは〜祝福のひと〜!
やはり変だった。

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